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日本人なら知っておきたい日系カナダ人が受けた人種差別

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昨今のニュースで目にするアジア系移民に対する人種差別や暴力は身に余るものがあります。21世紀の平和な世の中にあり、反人種運動が起きている北米であっても、この様な事件が何かのきっかけで連鎖反応の様に起きてしまうのを見るのは胸が痛みます。人々の心の中には偏見や人種差別が潜んでいて、何かをきっかけに吹き出してしまう、人間の弱さを感じる出来事ではないでしょうか。

皆さんの中には、海外生活に憧れ留学していたり、ワーホリを取って働いていたり、移民した方、これからそれらをやりたいと思っている方も多い事でしょう。

そして、夢を追いかけてカナダに来た人達の殆どが、これまで差別を受けることもなく自由安全に生活してこれたのではないでしょうか。

カナダは1867年から移民政策をとり、現在では年間約300,000人が移民しています。そういった状況もあり、カナダでは多国籍文化が一般的になり、多民族を受け入れる人権を重んじた平和な国家になりました。

しかし、そんなカナダもきれいな歴史ばかりではありませんでした。現在のような人権を保障された平和な国になるまでにはやはり黒歴史が存在し、その黒歴史に学び人々が変わろうと努力してきたからこそ、人権を重んじた平和な国家になれたのです。

その黒歴史には私たちの先人の日本人移民者達が受けた人種差別も含まれています。

もし、あなたが一夜にして今持っている住まいや地位や全ての財産を没収され、抑留されることになったらどうでしょう? それも4年もの間です。それは、仮説でもなく、小説でもありません。

80年前に、実際にあった話です。

私が、日系カナダ人差別、全てを奪われ抑留された事実を知ったのは、恥ずかしながらほんの15年ほど前です。地元の日系グループとの交流がきっかけで知ることになりました。

その後、デイケアで預かった子のおじいちゃんの日本に戻ったおじいさんとおばあさんのお墓を探すお手伝いをする機会があり、その方からもっと身近に学ぶこともできました。

残念ながら、偏見や人種差別はどの国にもあると思います。どんな人でも、歴史・文化や宗教の違い・環境・家族・経験などが原因で、知らず知らずの内に心に傷まれた偏見が隠れているのではないでしょうか。ただそれを行動言動に移すか移さないかの違いだけかもしれません。

私は、そのような偏見や人種差別をなくすには教育がとても重要な役割を果たすと思っています。その為には、過去の黒歴史を学び、同じ間違えを起こさない正しい考え方を身に付け次の世代に伝えて行く事が大事だと思います。

幸いなことに、カナダではこの黒歴史を学校教育できちんと行っています。だからこそ、今の不安定な環境でも殆ど人々が人種差別はいけないことだと理解しているのだと思います。

日本では、学校教育で日本は戦争で悪い事をしたと教わり、自虐思想を学び、連合国側黒歴史は過小評価している気がします。だからこそ、北米に住んでいた日本人が受けた人種差別や抑留の事実を知らない人が沢山いるのだと思います。

私がこの事実を一人でも多くの日本人に知ってもらいたい理由は、戦時中に敵だった国の人を恨んでほしいと言う訳では決してありません。

私が伝えたいのは、私達が経験しているカナダでの平和と平等な社会は元々存在していたものではなく、過去の歴史の中で日本人差別に耐え忍び平等な権利を得るために努力をしてくださったからあるのだという事、そしてそれを知ることによって、これからもっと良い社会にするために、私達一人一人が努力しなければならないのだと言う事です。

今回、私のブログでこの話を正しく伝えたいと思い色々と調べていたら、素晴らしいサイトを見つけることが出来ましたので、そのサイトの一部を日本語訳しながら紹介したいと思います。

このサイトでは、小学校5年生高校2年生用のダウンロードできる教材が掲載されています。

そのサイトの名前は「Japanese Canadian History」です。

ホームに書かれている文章は以下の通りです。

日系カナダ人の抑留について教える理由

日系カナダ人の抑留は、民族の多様性、寛容さ、多文化政策に誇りを持っている国の歴史のブラックマークです。日系カナダ人の抑留に関する研究は、人間性、人種差別、差別、社会的責任、政府の説明責任について多くの疑問を投げかけています。私たちの民主的制度は絶対的なものではなく、容易に維持されるものでもありません。沈黙と無関心は、健全な民主主義の敵です。収容所の研究を通して、学生は、市民の自由は開かれた社会と参加が期待される民主主義においてのみ保護されることができることを理解するようになります。 

日系カナダ人の抑留は、偶然ではなく、強要や必要性の下で行われた戦時中の決定の単なる偶然ではありませんでした。犠牲者の有罪や無実をほとんど考慮せずに、人生を変える決定がなされました。これは偏りや偏見なしに問題を評価せずに決断されました。多くのカナダ人は無関心であり、政府に反対することはほとんどしませんでした。

初期

日本からの最初の移民として知られる永野万蔵は、1877年にカナダに到着しました。他の少数派と同様に、それ以来、日系カナダ人は偏見に苦しみ、勤勉と忍耐力によってカナダで尊敬される地位を獲得しました。一世(第一世代)または移民のほとんどは、20世紀の初めの10年間に到着しました。彼らは日本の漁村や農場から来て、バンクーバー、ビクトリア、そして周辺の町に定住しました。他の人々は、太平洋岸に点在するフレイザーバレー漁村、鉱業、製材所、パルプ工場の町の農場に定住しました。最初の移民は独身男性でしたが、すぐに若い女性が加わり、家族の形成が始まりました。

この時代の人種差別は、道徳的劣等感を基にマイノリティをより低い地位に降格させることを正当化する行為で、なじみのないものに対する広く受け入れられた反応でした。BC州の社会における激しい反アジア的要素は、日系一世の人々がカナダを去るよう最善を尽くしました。

 1907年、バンクーバーの中国街日本街白人の暴徒が暴れ回り、生計を脅かすアジア人労働者の存在に抗議しました。彼らは連邦政府にアジアからの移民を止めるよう働きかけ、偏見も法で制度化されました。

アジア人は投票を拒否されほとんどの職業、公務員および教育から除外されましたそれから40年間、協同連邦党(CCF)を除いて、BC州の政治家は、州の白人至上主義者に仕え、選挙に勝つために人種差別の炎を煽りました。

 偏見と彼らの限られた英語能力の影響もあり、日本人は他の多くの移民のように、ゲットーに集中し(2つの主要なものはバンクーバーのパウエルストリートスティーブストンの漁村でした)、学校、病院、寺院などの独自の機関を開発しました。一世の白人社会との接触は主に経済でしたが、二世(第2世代)はカナダ生まれであり、より広いカナダのコミュニティでの生活により順応していました。

彼らは英語に堪能で、十分な教育を受けており、平等に参加する準備ができていましたが、両親が経験したのと同じ偏見に直面していました。

カナダ生まれの人々としての参政権に対する1936年の彼らの要求は、ブリティッシュコロンビアの政治家からの反対のために拒否されました。彼らが投票する権利を与えられたのはその13年後でした。

 

 

戦時中

1941年12月7日に日本が第二次世界大戦に突入した直後、日系カナダ人は西海岸から追放されました。日系カナダ人は安全保障に脅威を与えないと主張し、カナダ軍の上級メンバーとRCMPがこの行動に反対したにもかかわらず、「軍事的必要性」は彼らの大量除去と投獄の正当化として使用されました。それでも、西海岸からの排除は1949年までさらに戦後4年間続きました。

その大規模な不公正は、数十年前にブリティッシュコロンビアで始まった西海岸からアジア人を排除する運動の集大成でした。

1942年に、「制限区域」を離れて西海岸から100マイル(160 km)内陸に移動するという命令は、戦時措置法の権限の下で行われ、21,000人を超える日系カナダ人に影響を及ぼしました。ほとんどは、最初はヘイスティングスパーク(バンクーバーの太平洋国立展示場)の家畜小屋で開催され、その後、ブリティッシュコロンビア州の内部に急いで建てられたキャンプに移されました。

当初、多くの男性が家族から引き離され、オンタリオ州とBC /アルバータ州の国境にあるロードキャンプに送られました。グリーンウッド、サンドン、ニューデンバー、スローカンなどのブリティッシュコロンビア州内陸部の小さな町は、主に女性、子供、高齢者のための収容所になりました。一緒にいるために、一部の家族は、労働力が不足していたアルバータ州マニトバ州のテンサイ農場で働くことに同意しました。

カナダ政府の命令に抵抗し、異議を唱えた人々は、RCMPによって切り上げられ、オンタリオ州アングラーにある有刺鉄線の捕虜収容所に収容されました。

以前の政府の反対の約束にもかかわらず、敵国人財産の管理人(the Custodian of Enemy Alien Property) は没収された財産を売却しました。収益は、競売人と不動産業者への支払い、および保管と手数料の支払いに使用されました。残りは、収容所にいる人々に与えられた少額の手当のために支払われました。

ジュネーブ条約によって保護されていた敵国の捕虜とは異なり、日系カナダ人自分たちの抑留のためにお金を払うことを余儀なくされました。

そして、彼らの動きは制限され、彼らの郵便物は検閲されました。

第二次世界大戦が終わりに近づいたとき、日系カナダ人はすぐに「ロッキー山脈のに移動する」ことによって彼らの「忠誠心」を証明するか、戦争が終わったときに日本に「本国送還」することに同意する書類に署名することを強く勧められました。

多くの人がプレーリー州オンタリオ州ケベック州に引っ越しました。

また、約4,000人内半数がカナダ生まれの日系カナダ人は、1946年日本に追放されました。

マッケンジーキング首相1944年8月4日に庶民院で次のように宣言しました。

カナダで生まれた日本人種の人が、戦争の何年にもわたって妨害行為や不誠実な行為で起訴されたことはないのは事実です。

戦争が終わってから4年後1949年4月1日、すべての制限が解除され、日系カナダ人には選挙権と西海岸への帰還権を含む完全な市民権が与えられました。しかし、帰る家はありませんでした。

ブリティッシュコロンビアの日系カナダ人コミュニティは事実上破壊されました。

 再建と復活

人生を再建することは容易ではなく、一部の人にとっては手遅れでした。

高齢者の一世は一生働いていたものをすべて失い、年を取りすぎて新たに始めることができませんでした。

多くの二世は教育を中断し、大学に行く余裕がなく、多くの人が家族の稼ぎ手にならなければなりませんでした。

財産の損失は、長期にわたる心理的損傷によって悪化しました。犠牲にされ、「敵国人」と名付けられ、投獄され、没収され、ホームレスになった人々は、自尊心と遺産への誇りを失いました。

人種差別の復活への恐れと「四方がない」のストイックな態度は沈黙を生みました。

三世(三代目)は英語を話すように育ちましたが、日本語はほとんどまたはまったく話せませんでした。今日、ほとんどの人は彼らの文化的遺産についてほとんど知らず、彼らの肉親以外の他の日本人との接触は限られています。

異人種間結婚の割合は非常に高く、1996年国勢調査によるとほぼ90%です。

日系カナダ人として有名なのは、ジョイ・コガワ、デヴィッド・スズキ、トム・ショヤマ、レイモンド・モリヤマ、ジョン・キムラ・パーカー、タカオ・タナベ、リチャード・イケダ、アイリーン・ウチダ、マリカ・オオマツ、リンダ・オオハマです。

1967年移民法改正により、50年ぶり移民が日本からやって来ました。

新一世日本の都会の中産階級から来ました。彼らがもたらした文化は、一世がもたらした農民の文化とは異なっていました。茶道、生け花、折り紙、おどりなどの文化的伝統の多くと、武道などの日本のものに対するより大きなコミュニティの関心の高まりは、日系カナダ人コミュニティを活性化させました。同時に、三世が職業に就き、政府文書へのアクセスの制限が解除されるにつれて、戦時中の不正に対する認識が徐々に高まってきました

1980年代–救済運動

1980年代救済運動は、この国の完全な市民としての正義と認識のための闘いにおける日系カナダ人コミュニティ内の最終段階でした。

1984年1月全米カナダ人協会は、カナダ人が二度とそのような過ちにさらされることがないようにするため、第二次世界大戦中および戦後の不当の承認、不当に対する金銭的補償戦時措置法および憲章の権利と自由関連セクションの見直しと修正を求めることを正式に決議しました。

コミュニティの闘争は、組合、教会、民族、多文化、市民の自由グループからの代表を含む日系カナダ人救済のための全国連合の結成により、カナダの正義運動となりました。

彼らは支持の手紙を書き、集会や会議に参加しました。多くの政治家も彼らの支持と助言を呈しました。

1988年9月の救済の達成は、人種差別を克服し、民主主義におけるすべての個人の権利を再確認するための少数派の闘争の典型的な例です。

今日私は、両議院を代表し、日系カナダ人に、過去に行われた彼らや彼らの家族、彼らの遺産に対する不公正な行為が行われたことへの議会の正式で誠実な謝罪を呈すると同時に、この国の国民が、如何なる国の出身であろうと、このような違反が二度と繰り返し起こらないように厳粛なコミットメントに取り組むことを承知している。

ブライアン・マルルーニー首相の庶民院に対する発言、1988年9月22日

署名時の写真

ビジュアルタイムライン

このウェブサイトの「Visual Timeline」では、日系カナダ人が経験した出来事が起きた年を写真と共に学ぶことが出来ます。内容は以下の通りです。

 

以下、引き続き「Japanese Canadian History」のサイトから

1877年に、日本人初の移民者として「ナガオマンゾウ」さんが記録に残されています。1877年から1907年に日本からの主に男性達が移民し、女性達は1908年以降に移民してきました。ブリティッシュコロンビア州リッチモンド市スティーブストンにあった漁業の町でサーモン漁とその加工業携わりました。

1890年代には、現在のバンクーバーダウンタウンのパウエルストリートに「リトル東京」と言われる日本人街が築かれ、色々な店を営む人が増えました。

1907年アンチアジア暴動が起き、リトル東京の沢山のお店が被害に合いました。カナダ政府により修復費が下りたようです。

 

1941年ごろ、野球チームバンクーバー朝日」が、白人チームを負かし、連勝し続け一躍有名になっていました。しかしその頃、太平洋戦争が始まろうとしていたため、日系移民は全て指紋を取られ身分証明書常時携帯しなければならなくなりました。

 

この年の12月日本がパールハーバーを襲撃したことにより、全ての日系移民が所有していた漁船はカナダ政府に没収され競売に出されました。

1942年2月24日には、夕暮れから夜明けまでの夜間外出禁止令が出され、日系移民が所有する車、ラジオ、武器、カメラ没収され、その後没収された車は「敵国人財産の管理局」の定めた価格で競売に出されました。

1942年3月、日系移民はヘイスティング公園に集められ、家族そして男女別々に分けられました。男性はヘイスティングパーク敷き詰められた二段ベットを寝床にされ、女性は旧畜舎馬小屋を与えられ、ゲートに毛布を掛けることで少しのプライバシーを得ていました。

1942年3月、日系移民はヘイスティング公園に集められ、家族そして男女別々に分けられました。男性はヘイスティングパーク敷き詰められた二段ベットを寝床にされ、女性は旧畜舎馬小屋を与えられ、ゲートに毛布を掛けることで少しのプライバシーを得ていました。

それから、Lemon Creek, Tashme, Greenwood, Slocan, New Denver, Sandon, Kasloにあったキャンプ場で、畑を作り生活しました。

男性は、Hope and Princeton, Revelstoke and Sicamous, and Blue River and Yellowhead道路工事に借りだされ作業をしました。

子供たちはまともな教育をうけられ無かった為、教会が協力し子供たちの教育を始めましたが、学費を払わなければなりませんでした。

1945年広島と長崎に原爆が落とされ終戦。抑留されていた日系移民は日本へ行くかカナダ東部へ行くかの選択を迫られ、日本へは一度も行ったことがない多くの日系人が日本へ行くことになりました。

1986年から、日系カナダ人救済のためのトロントアドホック委員会が、救済運動を支援するために、1986年3月6日にグローブアンドメールに広告を掲載しました。

主な見出しは次のとおりです。「1942年にカナダはキャンプにたくさんの子供たちを送りました…間違っています。日系カナダ人の救済を支援する

1988年4月14日、日系カナダ人救済の支持者によるオタワラリーが始まり、

1988年9月22日マルルーニー首相日系カナダ人協会の会長であるアート・ミキが救済協定に署名しました。

当時の生存者は、「第二次世界大戦中の日系カナダ人の強制退去と抑留、および戦後の彼らの強制送還と追放は不当であった」という和解と承認を受け取りました

 

ドキュメンタリー動画

このウェブサイトの「Other Resources」にいくつかのドキュメンタリー動画が掲載しています。

全て、当事者のインタビューが含まれています。

時代が違えば、自分たちが体験していたかもしれない話です。涙なしでは見れません。

以下、引き続き「Japanese Canadian History」のサイトから

カナダ政府による日系カナダ人に対する謝罪

カナダ政府が、日系カナダ人に行った戦時中の行動に対しての謝罪をした時のニュース動画です。

敵国人

当時の日本人が、どの様に扱われていたかよくわかる動画です。市民権も選挙権もない日系人が、屈辱を耐えしのぎ市民権を得るまでの事が理解できる動画です。

ミノル

当時、子供だった「ミノル」の目線からみた戦中戦後の様子をアニメーション動画にしてあります。

おばちゃんガーデン

広島で終戦を迎え、戦後カナダにお嫁に来た日本人女性の波乱万丈の人生を孫の目を通して再現した映画です。

眠むれる虎

当時バンクーバーで活躍していた野球チーム「バンクーバー朝日」についてのドキュメンタリー動画「眠むれる虎」は辛い環境にいてもプライドと喜びを忘れなかった選手たち。そしてそれが日本人を敵として見ていたカナダ人の心を動かした素敵な話です。

 まとめ

人種差別は、往々にして偏見妬みによって起こるものです。当時の日本人移民者達は、低賃金なのに真面目でよく働いたので、現地カナダ人は自分たちの生活が脅かされると思った人も少なくなかったと思います。

戦争がはじまると多くのカナダ人兵士も命を亡くしたため、敵国である日本の血を引く移民者全てに対するイメージも悪くなりましたが、日系カナダ人達が、戦時中の抑留生活を暴動も起こさず耐え続け、日本人のプライドと人権を取り戻す努力をしてくださったお陰で日本人がカナダ生きていける道筋を築いてくださりました。

しかし、偏見はそう簡単になくなるものではありませんでした。この方たちは、その後も胸を張って生活することはできなかったと思います。

また、上記の資料にもありましたが、1960年代に日本から移民してきた新日本人移民者の家族も差別なしに生活できたわけではありません。

1970年代はまだ、カナダにアジア人が少なかった為、小学校でも偏見や人種差別を受けたようです。

その後、日本の高度経済成長期に質の良い日本の電化製品や車が輸入され、日本食やアニメなどの流通や、インターネットの普及もあり、日本文化に対する尊敬も得られるようになってきています。

これらは全て、先人の日本人達が頑張ってくれたお陰です。私達自身が行ったことではありません。それなのに、得しているのは私達現代に生きる日本人です。

私の息子二人は今まで一度も差別を経験したことがありません。むしろ、日本人のイメージは良くなっているようです。

私は、これからもカナダに住む日本人として、将来の日本人に迷惑が掛からない様に日本人の文化誇りを伝承していけるように努力していきたいと思います。

上記の動画の他にも色々な書物のリストもあります。

興味のある方は Japanese Canadian History のサイトをご覧ください。

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