カナダでは、11月11日が戦争で命を失った兵士を追悼する「リメンバランスデー」です。
11月に入ると街中では、赤いポピーの花を模したプラスチックの胸飾りがあちこちに置かれ、募金を集めています。この募金で集められた寄付金は、退役軍人及び遺族の為に使われることになっています。
なぜポピーの花かと言うと、第次世界大戦後に書かれた詩 “In Flanders Fields”「フランダースの戦場で」に、沢山の死者が出た戦場にポピーの花が風に揺れている状況が詠まれているところからきています。
ポピーの花は、死、慰め、記憶を象徴とし、1920年、愛する人を戦争で亡くした人達の救済の為に正式にポピーの花が「リメンバランスデー」のシンボルとして採用されました。ですので、ポピーの花が正式に使われるようになってちょうど100年が過ぎた事になります。
なぜ沢山のポピーの花が戦場に咲いていたのかと言うと、戦争で使われた爆発物に含まれる窒素と瓦礫からでた石灰や、戦争で亡くなった人や動物の死骸が肥しとなり、ポピーの繁殖に最適な土壌を作ったからだそうです。
11月11日のこの日は祝日となっていますので、毎年各地で退役軍人、現役軍人やその家族たちなどが集まり追悼式が行われます。カナダの学校でもリメンバランスデ―の前日に式が行われます。
ここ数年、この時期になると少数民族出身の退役軍人の話をよく耳にします。
今週のニュースの特集では、先住民とアフリカ系カナダ人の軍人が受けた人種差別が話題でした。
日本人移民者の軍人はどうだったのでしょう?
気になったので調べてみました。
皆さんは、三井真澄「ミツイ・マスミ」さんをご存じでしょうか?
私は、カナダに25年近くも住んでいるのに、今日初めて知りました。
そこで今日は、私達日本人移民の先人であり、カナダの為にそして日系カナダ人や移民の人たちの為に勇敢に戦った「ミツイ・マスミ」についてご紹介したいと思います。
内容はウィキペディアから割愛させていただきました。
Masumi Mitsui(三井真澄:ミツイ・マスミ)
1887年10月7日生 – 22 April 1987年4月22日没
三井真澄(ミツイ・マスミ)は、1887年10月7日に福岡県小倉市の武士の家系に生まれました。
1908年にカナダに移住し、当初はブリティッシュコロンビア州ビクトリア市のユニオンクラブでウエイターとして働き英語を学びました。働きぶりも良く、リーダーシップにも長けていたそうです。
1914年に勃発した第一次世界大戦当時、ブリティッシュコロンビア州ではアジア移民に対する反発運動が激しくなっていましたので、少数民族の入隊は受け入れられませんでした。
そこで、入隊を希望する三井などの日系移民らは、反発の少なかったアルバータ州に移り入隊することになりました。三井は後に入隊の理由を聞かれ、「カナダと日本の利益のためになると信じていた」からだと述べています。
1917年、三井は他6人の日本人兵士と共にフランスのヴィミーリッジの戦いに参加し負傷しました。その後、英語が堪能な三井は35人の日本人兵士を率いて70高地の戦いに出兵しましたが、その内5人だけが生還しました。
後に三井は、そのリーダーシップと戦場での勇敢な戦いぶりや負傷者への支援などを称し、英国従軍記章と勝利記章を授与されました。
1919年、三井は名誉ある軍曹として退役し、1926年に日系退役軍人組織のブリティッシュコロンビア支部第9号を設立し、投票権など日系カナダ人の権利拡張への活動を始めました。
しかし、1941年に勃発した第二次世界大戦当時、日本人移民は敵国人と見なされ、財産は全て没収され、抑留されました。
三井は「第一次世界大戦時と同じように、カナダへの揺るぎない忠誠心」を誓うと国防省へ手紙を書きましたが、三井自身も17エイカーにも及ぶ土地と財産を没収され抑留されました。戦後補償で戻ってきたのはその1/3だったそうです。
三井と三井の娘が、敵国人として登録されるときの出来事です。
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登録官:「軍曹、私に何かできますか。」
三井:「私に何をしているんだ?私は国に仕えた。あなた方は私からすべてを奪った。私のメダルの良いところは何ですか?」
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三井は、自分のメダルを床とテーブルに散らばらせ、その後メダルが返却されても着用することを拒否したそうです。
その後三井はら家族は、ブリティッシュコロンビア州のグリーンウッドで抑留されました。手元に残ったのは、息子のジョージが埋めて隠して置いた日本刀一本だけだったそうです。
戦後、三井達は日本に帰国するかカナダ東部へ移住するかの選択したか与えられたれませんでしたので、家族とオンタリオ州ハミルトン市に移り定住しました。
三井は、毎年リメンバランスデーの時は制服と勲章を身に付け自宅に籠り追悼し、公務へは一切参加しなかったそうです。
バンクーバーのスタンレーパークにある第一次世界大戦後に奉られた日系カナダ人戦争記念碑の灯篭の火が、1941年の真珠湾攻撃を期に消されたままになっていたため、1985年8月2日に行われた再点灯の儀式に三井も参加しています。
98歳の三井はインタビューで、「私は仲間のために最後の義務を果たしました。彼らの命は消えましたが、彼らは忘れられていません」と述べたそうです。
三井は1987年4月22日、第一次世界大戦の日系カナダ人228人の退役軍人の最後の生き残りとして亡くなりました。
こちらがバンクーバーのスタンレーパークにある日系カナダ人戦争記念碑の写真です。
ここには第一次世界大戦と第二次世界大戦で戦った日本人兵士の名前が刻まれています。
灯篭の傘の形は菊の模様を模しているそうです。
まとめ
今のこのコロナ禍で、私達新日本人移民が他のカナダ人たちと変わる事のない補償や援助を受けることができるのも、三井さんたち先人日本人達が人権を獲得できるようにどんな状況でも戦い続けて下さったお陰だと思います。
私は今までスタンレーパークに日系カナダ人の記念碑があることも知りませんでした。
私の息子達はカナダで生まれ平和な時代に育っていますので、日系だという事を余り深く考えたことはないと思います。
二人とも物事がしっかりと分かる歳になりましたので、日系カナダ人だという事を考えるきっかけになる為にも、近いうちに、日系カナダ人戦争記念碑を見に息子を連れて行ってみたいと思います。
今回三井さんの事を知ったことにより、これからの「リメンバランスデ―」は、今までとまた違ってもっと感慨深いものになりそうです。
以前、ブログで日系カナダ人が受けた抑留についての記事を書きました。たくさんの資料を見ることができます。
まだお読みでない方は是非お読みください。